記事公開日:2025年07月13日(日)
2025年7月12日(日)、大阪・関西万博2025の記念として、航空自衛隊がブルーインパルスを飛行させた。
1日目と同様、知人にお願いして撮影させてもらった。
1日目よりは質の高い動画が撮影できたと思う。
1日目の動画は:https://night-chiwawa.blogspot.com/2025/07/JapanOsakaExpo2025-AerobaticTeam.html
【往路】
動画URL:https://youtu.be/QI-8cMvlo98
【復路】
動画URL:https://youtu.be/38Dprg3lyj8
【円を描くブルーインパルス】
動画URL:https://youtu.be/z0_AXmsQyQk
当初は2025年4月10日(木)に予行飛行し、4月13日(日)の万博開幕当日に本番飛行の予定だった。
予行飛行は予定通り実施されたものの、本番は悪天候のため中止となった。
予行飛行の日は平日ということもあり、見られた人は限られていた。
その後、何とか飛行させてほしいという多くの声と、大阪府の吉村洋文知事の要請もあり再検討されていた。
万博開幕からちょうど3ヶ月となる2025年7月12日(土)・13日(日)の2日間、飛行されることとなった。
13日は前日と同様、厚い雲に覆われていたものの、幸い悪天候にはならず飛行が実現した。
【ブルーインパルスの飛行ルートと時刻】
午後2時40分頃:関西国際空港を出発。大阪府を北上。
通天閣上空を通過。
大阪城上空を通過。
1970年の万博会場となった万博記念公園の太陽の塔上空を通過。
ひらかたパーク上空を通過。
Uターンして大阪府を南下。
再度、大阪城上空を通過。
再度、通天閣上空を通過。
河内長野市まで南下し上空を旋回(時間調整の場合)。
大阪・関西万博2025の会場のある夢洲へ向けて北上。
15時:夢洲に到着。
夢洲には予定通り15時ちょうどに到着した。
日々の厳しい訓練の成果が明確に現れた。
記事公開日:2025年07月12日(土)
2025年7月12日(土)、大阪・関西万博2025の記念として、航空自衛隊がブルーインパルスを飛行させた。
知人にお願いして撮影させてもらった。
1日目は何時頃にどのように飛んでくるか、なかなか読めなかったため、かなり質の低い動画となったが、2日目は1日目以上のものが撮影できた。
2日目の動画は:https://night-chiwawa.blogspot.com/2025/07/JapanOsakaExpo2025-AerobaticTeam2.html
【往路】
動画URL:https://youtu.be/fxEil5MQeBc
【復路】
動画URL:https://youtu.be/Eg1UnAI-nXs
当初は2025年4月10日(木)に予行飛行し、4月13日(日)の万博開幕当日に本番飛行の予定だった。
予行飛行は予定通り実施されたものの、本番は悪天候のため中止となった。
予行飛行の日は平日ということもあり、見られた人は限られていた。
その後、何とか飛行させてほしいという多くの声と、大阪府の吉村洋文知事の要請もあり再検討されていた。
万博開幕からちょうど3ヶ月となる2025年7月12日(土)・13日(日)の2日間、飛行されることとなった。
12日は厚い雲に覆われていたものの、幸い悪天候にはならず飛行が実現した。
【ブルーインパルスの飛行ルートと時刻】
午後2時40分頃:関西国際空港を出発。大阪府を北上。
通天閣上空を通過。
大阪城上空を通過。
1970年の万博会場となった万博記念公園の太陽の塔上空を通過。
ひらかたパーク上空を通過。
Uターンして大阪府を南下。
再度、大阪城上空を通過。
再度、通天閣上空を通過。
河内長野市まで南下し上空を旋回(時間調整の場合)。
大阪・関西万博2025の会場のある夢洲へ向けて北上。
15時:夢洲に到着。
夢洲には予定通り15時ちょうどに到着した。
日々の厳しい訓練の成果が明確に現れた。
記事公開日:2025年01月23日(木)
2005年1月、大阪の地下鉄千日前線の駅ホームに新しいタイプの電車行き先案内(以下、発車標とする)が設置された。
今回は、その当時の思い出話を書こうと思う。
新設の発車標は、大型のカラー液晶ディスプレイ式で、電車が接近した際には文字に合わせて電車のアニメーションも表示されるという、当時としては大変斬新なものだった。
電車の接近・発車、運行支障時の案内、その他注意喚起やお知らせを日本語・英語だけでなく中国語や韓国・朝鮮語でも案内し、多言語化にも対応させた。
その頃、駅ホームの発車標に液晶ディスプレイを採用している鉄道事業者はまだほとんどなく、少なくとも日本の地下鉄では初の採用だったように思う。
どの鉄道事業者も、発車標を更新する際はLED式(発光ダイオードで電光掲示板と呼ばれることも多い。オレンジ・赤・緑の3色タイプと、白色や青色表示も可能なフルカラータイプがあった)を採用することがほとんどだった。
行灯式(行灯はあんどんと読む。予めパネルに印字した文字に蛍光灯や電球を充てて浮かび上がらせる方式)や反転フラップ式(パタパタめくれるタイプでパタパタ式と呼ぶ人もいる)など旧式タイプの発車標からLED式に更新という流れ。
大阪の地下鉄(ニュートラムを含む)では8路線(今里筋線はまだ開業前)あるうち、御堂筋線・谷町線・四つ橋線・堺筋線・長堀鶴見緑地線の5路線が3色LED式、中央線・千日前線の2路線が行灯式、ニュートラム(南港ポートタウン線)がLED式(1部の駅のみ)と反転フラップ式を採用していた。
他の鉄道事業者も含め、特に都心部の主要路線はLED式を採用しているところが多かった。
行灯式や反転フラップ式は予め印字された文字しか表示できないため、電車の運行に支障・遅延が出た時やお知らせ事項があった時などに迅速な対応ができず、その都度駅構内アナウンスや掲示物で補足案内を行うしかなかった。
一方LED式は操作端末の設定で自由に文字入力・編集作業ができるため、迅速な情報提供が可能でシステム改修次第では表示内容の変更や機能の拡張も可能だ。
そのため行灯式だった千日前線は旧式感が否めなかった。
てっきり主流だったLED式に更新されると思っていたが、3色LEDやフルカラーLEDどころか、一気に大型のカラー液晶ディスプレイへ更新されたため、飛躍感がすごく驚いた。
他社での採用実績もほとんど無かったため、非常に注目されたことを覚えている。
しかしLED式に比べて耐久性は大丈夫なのだろうか?すぐに画面の焼き付け(同じような表示内容を長時間している場合に画面に痕が残ってしまう症状。パソコンにスクリーンセーバーがあるのはこれを防止するため)が起こるのではないか?と正直思った。
もう20年も前のことなので、時効だと思うので書かせていただくが・・・。
実は2004年頃だったか、ある匿名掲示板(どこかは失念)に「千日前線の発車標が近々更新される予定。」というような書き込みがあり、千日前線の各駅で更新工事が開始された後の段階で情報を得ていた。
続けて「LED式ではない。今までと違って斬新なものになる。」とあった。
当時の大阪の地下鉄はまだ民営化される前(民営化により大阪メトロとなったのは2018年4月1日)で、公営企業(大阪市交通局という大阪市役所の1組織)だったため、大阪市役所の入札情報サイトで大阪市交通局を選択すると、一般人でも年間の工事予定の案件(入札前の段階で確認できる)や、入札・落札情報(入札前→入札経過状況→落札後まで閲覧できる)などが一覧で見ることができた(民営化されてからは案件情報の公開は一切なくなった)。
これにより、一般人でもある程度の予定を事前に知ることは可能だった。
例えば年間の工事調達予定の一覧に「大阪市高速電気軌道第5号線旅客案内表示装置製造更新・据付工事」などの記載があると、千日前線の発車標が近い将来製造されて更新・設置工事をする・・・といったことくらいはわかる。
大阪市高速電気軌道というのは大阪市営地下鉄(当時)のことで、第5号線は5番目の路線という意味。
大阪市の地下鉄で5番目の路線は千日前線を指し、旅客案内表示装置は駅ホーム部の発車標を意味する。
大阪市交通局では、それぞれ手続きや書類上ではそのように表記していた。
当時の私はまだ子供だったので疑わなかったが、掲示板に書き込んだ人物は発車標が更新される事自体は入札情報から知ることができても、中身の仕様のことまでどうして分かったのだろう?と今思えば・・・。
機密情報が含まれるため、今も昔も仕様書は大阪市の入札情報サイトに事前登録し、大阪市役所からの承認を受けている事業者しか閲覧できない仕組みになっている。
とすると掲示板に書き込んだ人物は・・・・これ以上は敢えて書かないでおくが、想像するに難しくはない。
恐らく掲示板に書き込んだ時点では、既に落札されており業者選定も完了、工事も着手している段階だったこと、「今までと違って斬新なものになる」とは書いたが具体的な仕様を書いたわけではないため、大して影響はないと思ったのだろう。
鉄道ファンへの厚意のつもりもあったのかもしれない(その人物自身も鉄道好きだったのかもしれない)。
この情報を得て以降、千日前線の一部の駅を見て回った(どの駅だったかは失念)。
2004年秋頃から年末くらい?にかけて、ホーム天井部の一部のパネルが取り外され、既設の発車標に近い場所で配線工事を行っている駅が数駅あった。
パネルが取り外された天井部は半透明のパネルで塞がれ、仮設天井になっていた。
この仮設のパネルの部分から、銀色の細い鉄状の棒が2本突き出ている駅もあった。
この棒は後に発車標取り付けに不可欠な支柱で、天井ボード裏に入ってコンクリート部の天井にしっかり固定されているものだとわかった。
比較的工事が進んでいたのは日本橋駅で、既に機器らしきものが設置され黒いビニールシートで覆われていた。
小さい正方形型で、当時の行灯式発車標の半分くらいの大きさしかなかったので、発車標にしては少し小さすぎではないか?と思ったのを覚えている。
後にこれは液晶ディスプレイを取り付けるための土台+ディスプレイの電源・入出力装置等が格納された筐体(仕様は不明だがパソコン本体のようなものも格納されているかもしれない)だとわかった。
その時点ではまだ液晶ディスプレイ本体は設置されていなかったのである。
この状態で年が明けて2005年、新たに掲示板に「新発車標1番手は野田阪神駅になる。今度の土・日あたり。」との具体的な情報が書き込まれていた。
妙に覚えていて、確かに1月の土曜・日曜のどちらかだったと思うが、情報をもとに野田阪神駅に向かった。
当時のカレンダーを確認すると、2005年最初の土・日は1月1日・2日。
さすがにこの日はないので、1月8日・9日あたりだっただろう。
午前中(早朝ではなかったと思う)に野田阪神駅に着くと、確かに新しい発車標が設置され既に稼働していた。
30インチ以上ある大型の液晶ディスプレイで、他鉄道事業者も含めて今までにないくらい大きな文字で行き先が表示され、アナログ表示の時計も発車標内に集約されたのが印象的だった。
発車標の真下には黄色のヘルメットを着用した関係者らしき人が5・6名くらいおり(恐らく交通局職員・メーカー・施工業者だろう)、書類を片手に発車標を見上げながら打ち合わせをしている様子だった。
「点滅速度がちょっと遅くないか?」といった声が聞こえてきたので、安定稼働しているかの確認作業をしていたのだと思われる。
電車の接近状況を示す「⇨ 玉川 ⇨ 野田阪神」の表示。
電車の走行位置を「➡ 玉川 ⇨ 野田阪神」や「⇨ 玉川 ⇨ 野田阪神」という感じで反転・点滅させ、駅への接近状況を知らせる仕組みになっている。
この点滅速度、通常は約1秒間隔なのだが2秒間隔くらいになっていて確かに遅かったので、このことを言っていたのだと思われる。
即設定変更が行われたのだと思うが、その後は1秒間隔になっていた。
もしかしたら、稼働初日の一部時間帯だけ見られた貴重な場面だったのかもしれない。
現代のようにモバイルで簡単に動画撮影できるような時代ではなかったため(動画撮影自体は当時の携帯電話でもできたと思うが、本体のメモリ容量が低容量のため動画が保存できる余裕がなかったと思われる。スマートフォンはまだなかった)、撮影記録していなかったことが悔やまれる。
あと稼働当初は行き先の字体も少し異なっており、「南巽(みなみたつみ) ゆき」の「巽」の字の上の部分が「己己」になっていたが、後に「巳巳」に改められた。
なお、パソコン等で文字入力する際は「たつみ」で漢字変換すると、「巳巳」ではなく「己己」の方の「巽」に変換される。
運行情報やお知らせ等を表示するメッセージ欄はまだ稼働しておらず、これは2006年12月24日の今里筋線開業当日から表示されるようになった。
発車標の稼働開始(2005年1月)からメッセージ欄の運用開始まで2年弱かかったことになるが、恐らく運行管理システム等の改修が必要になるため、改修作業を今里筋線開業のタイミングに集約させて作業面だけでなく費用面でも効率化させたのだろう。
当時の大阪の地下鉄は運行支障時の指揮系統・対応の迅速化を目的に、路線ごとにバラバラだった運行指令所を段階的に統合させている時期でもあった。
千日前線全駅で発車標の更新完了後、ホーム天井部に設置の時計と時刻表は段階的に撤去された。
時計は前述の通り、発車標に集約されたため不要になった。
時刻表は出口や構内図と同様のスタンドタイプに変更され、文字サイズも大幅に拡大されて見やすいものとなった。
その後、一度(2017年頃?)は液晶ディスプレイのバックライトが交換されている。
液晶ディスプレイ自体の交換を行ったかはわからないが、Osaka-Subway氏のXの情報によると、千日前線阿波座駅の一部のみ「JAPANNEXT」社の液晶ディスプレイに交換されているとのこと(具体的な時期は不明)。
千日前線の他の発車標と異なるのは、ディスプレイが薄型化されており、縁の部分が細くなっている。
千日前線の更新後に液晶ディスプレイ型の発車標が設置された今里筋線(2006年12月)と中央線(2007年2月)は、それぞれ2019年8月と2020年3月に液晶ディスプレイごと交換されており、設置後12年~13年経過後に更新している。
このことから、この2路線より設置年数が古い千日前線も、一度は液晶ディスプレイが交換されていてもおかしくないだろう。
記事公開日:2024年10月05日(土)
前回、携帯電話番号に「090」「080」「070」に加え、新たに「060」が2024年12月中に追加されることになったことを こちら で記事にした。
現在の携帯電話番号は090(あるいは080や070、今後は060も)-1234-5678というように11桁。
元々は11桁ではなかったことをご存知だろうか?
かつては10桁で、1999年1月1日午前2時から日本全国一斉に11桁化が実施され、現在の番号形態となった。
ちなみにその当時は携帯電話向けの番号は090のみで、080の割り当てはまだ無く、070はPHS専用番号だったそう。
私の親が1996~1997年頃から携帯電話を保有しており、その頃の思い出話を聞かせてくれたのでご紹介しよう。
携帯電話保有のきっかけは、飲み屋で知り合った携帯電話会社社員からの勧誘だったそう。
「今後は家庭でも仕事でも携帯電話が必需品になる時代が必ず来る。端末を安く提供させてもらうので、この機会に契約しないか?」と持ちかけられた。
その時はプライベートでも仕事でも必要性を感じなかったが、人柄が非常に良い人で飲みの席でもよく奢ってくれる人だったので、お礼も兼ねて契約してみることにしたそうだ。
結果的にその人の言葉に間違いはなく、その後間もなく携帯電話の必要性を感じたという。
ちなみに親はその頃に契約した携帯電話番号も、契約会社も変わらず今も使い続けている。
その頃の携帯電話番号と言っても契約当時は10桁。
11桁になった時の事で覚えているのが(親としては桁数は覚えていないが、携帯番号が変わると案内されたことは覚えているという)、携帯電話ショップに行かないといけなかったことだそうだ。
当時の携帯電話はインターネットどころか、メールもなく電話機能のみの時代。
液晶画面は電話の発着信時の番号表示と簡単な機能設定くらいしか使うことがなかったためか、小型電卓の液晶のような小さく横長サイズのモノクロ液晶だったそう。
10桁の電話番号が前提で製造されているため、11桁化に伴い正常に発着信ができるように携帯電話ショップで対応してもらわないといけなかったとか。
今で言うファームウェアの更新(システムのアップデート)のようなものだと思われる。
当時は家庭も携帯電話でもインターネット回線はまだ普及していない時代(NTTドコモのiモードが世界初の携帯電話向けのインターネットサービスで、サービス開始は1999年2月22日だった)だったし、端末側にも自動でファームウェアを更新するような機能がない時代だったので、基本的に携帯電話ショップの対応が必須の時代だった。
すぐにショップに駆け込んで11桁対応化の設定をしてもらったそうだが、液晶画面は最大10桁の電話番号が表示される前提で作られていたため、11桁は表示できなかったそうだ。
ちなみに固定電話の番号も最大で10桁だ。
店員からは「端末の液晶の仕様上、11桁の番号を全桁表示させることはできないが、正常に11桁化対応はできているのでこのまま使って」と言われたそう。
この機会に10桁から11桁化された際、1桁どういう感じで番号が追加されたのか調べてみた。
10桁の時代、携帯電話は010・020・030・040・080・090で始まる番号、PHSは050・060で始まる番号だったそう。
11桁化の際に携帯電話は090、PHSは070で始まる形式に統一化され、共に4番目の数字が追加されたそうだ。
携帯電話の場合は090-◯234-5678、PHSの場合は070-◯234-5678のとなり、この◯の部分に入る数字が11桁化の際に追加された数字で、規則性があったそうだ。
10桁の時に010で始まる番号だったユーザーは先程の◯の部分に「1」が入り、020のユーザーは「2」、030のユーザーは「3」、040のユーザーは「4」、050のユーザーは「5」、060のユーザーは「6」、080のユーザーは「8」、090のユーザーは「9」となったそうだ。
携帯電話・PHSそれぞれ1例ずつ書くと、10桁時代に010-234-5678だった携帯電話ユーザーは090-1234-5678に、050-123-4567だったPHSユーザーは070-5123-4567へ11桁化された。